ツァラトゥストラにおける『力への意志』:その本質とショーペンハウアー哲学との比較
『ツァラトゥストラはこう語った』における「力への意志」概念の重要性
フリードリヒ・ニーチェの主著の一つである『ツァラトゥストラはこう語った』は、多くの比喩、寓話、そして詩的な表現に満ちており、その読解は容易ではありません。しかし、この作品を貫く最も重要な概念の一つに「力への意志(Wille zur Macht)」があります。この概念は、『ツァラトゥストラ』だけでなく、ニーチェの後期哲学全体の中核をなすものですが、その理解にはしばしば誤解が伴います。単なる権力欲や支配欲と混同されることも少なくありません。
本稿では、『ツァラトゥストラ』における「力への意志」がどのようなものとして提示されているのか、その本質を探求します。さらに、この概念を哲学史の中に位置づけるために、ニーチェが大きな影響を受けつつも後に批判的に乗り越えようとしたアルトゥル・ショーペンハウアーの「生の意志(Wille zum Leben)」との比較を通じて、ニーチェ独自の思想の明確化を試みます。この比較検討は、「力への意志」が単なる生物学的な衝動や政治的な権力追求に還元されない、より深い哲学的意味合いを持っていることを理解する上で非常に有効であると考えられます。
『ツァラトゥストラ』における「力への意志」
『ツァラトゥストラ』において、「力への意志」という言葉は、他の著作ほど頻繁かつ体系的に論じられているわけではありません。しかし、その思想は作品全体に深く根差しています。例えば、第二部「自己超克について」の章では、ツァラトゥストラは「汝ら賢者たちよ、かつては汝らが、被造物は生成の意志によって運ばれる、と語ったが、これは誤りだ。被造物は力への意志によって運ばれるのだ」と語ります。ここでニーチェは、ショーペンハウアー的な「生成の意志」あるいは「生の意志」とは異なる原理を提示していることが分かります。
ツァラトゥストラが語る「力への意志」は、単に他者を支配しようとする欲求ではありません。それは、あらゆる生命に内在する、自己を高め、自己を超克し、より強力なものへと自己を形成しようとする根源的な衝動として描かれています。それは受動的な生存や維持ではなく、能動的な成長、拡大、創造への意志です。ツァラトゥストラは「生命あるものがあるところには、必ず意志がある」「そして生命の意志は、権力への意志ではない」と述べた後、「しかし私は汝らに秘密を打ち明ける。生命そのものが権力への意志である」と訂正します。これは、生命の本質が単なる自己保存ではなく、常に自己を超えようとする力動性にあることを示唆しています。
この「力への意志」は、「超人(Übermensch)」の思想と深く結びついています。超人とは、既存の価値観や自己を超克し、自身の力への意志を最大限に肯定的に発揮する存在です。また、「永劫回帰(ewige Wiederkunft)」という思想も、「力への意志」の極限的な肯定と関連付けられることがあります。自己の生を、その苦悩や困難も含めて、永遠に何度でも繰り返したいと欲する意志は、自己の力への意志の絶対的な肯定なしには成り立ちません。
ショーペンハウアーの「生の意志」
ニーチェは若い頃、アルトゥル・ショーペンハウアーの哲学に深く傾倒しました。ショーペンハウアー哲学の中核をなすのは「意志(Wille)」という概念です。ショーペンハウアーにとって、意志は世界の根源をなす形而上学的な原理であり、盲目的で目的のない衝動です。これはカントの現象界の背後にある物自体に相当するものとして捉えられ、現象世界は意志の客観化、すなわち表象(Vorstellung)として現れます。
ショーペンハウアーの言う「意志」は、特に生命の世界においては「生の意志(Wille zum Leben)」として現れます。これは、あらゆる生物が持つ、生き続けようとする、種を維持しようとする、そして自己を再生産しようとする盲目的で飽くなき衝動です。しかし、この「生の意志」は決して満たされることがなく、その本質は欠乏と苦悩です。生あるものは常に欲求に突き動かされ、それを満たしても一時的な満足に過ぎず、すぐに新たな欲求や苦悩が生じます。ショーペンハウアーは、この「生の意志」こそが世界の苦悩の根源であると考え、そこからの解放(例えば芸術鑑賞や禁欲、仏教的な涅槃)を説きました。
ニーチェの「力への意志」とショーペンハウアーの「生の意志」の比較
ニーチェの「力への意志」は、名称の類似性からショーペンハウアーの「生の意志」の系譜にある概念と見なすことができますが、その本質と価値判断においては決定的に異なっています。
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意志の性質:
- ショーペンハウアーの「生の意志」:盲目的、目的のない、苦悩の原因となる衝動。主に自己保存や種の維持に向けられた受動的な側面が強調されます。
- ニーチェの「力への意志」:自己超克、生成、創造、拡大に向けられた能動的で力動的な原理。単なる維持ではなく、常に自己を高めようとする意志です。
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価値判断:
- ショーペンハウアーの「生の意志」:否定されるべきもの、苦悩からの解放を目指すべき対象。厭世主義的な世界観に繋がります。
- ニーチェの「力への意志」:肯定されるべきもの、生命の本質であり、自己実現と創造の源泉。生の肯定を基盤としています。
ニーチェは、ショーペンハウアーが意志を単なる「生存」や「生成」に還元し、それを否定的なものとして捉えたことに異議を唱えました。『ツァラトゥストラ』のツァラトゥストラが「被造物は生成の意志によって運ばれる、これは誤りだ」と語ったのは、まさにこの点です。生命は単に生きることに固執するのではなく、常に自己の力を増大させ、自己の可能性を最大限に実現しようと志向している。ニーチェにとって、ショーペンハウアーが見た苦悩は、力が自らをさらに高めようとする際に必然的に伴う産みの苦しみのようなものであり、否定されるべきものではなく、むしろ肯定されるべき生の営みの一部だったのです。
ショーペンハウアーが意志の沈静化に救いを求めたのに対し、ニーチェは意志の徹底的な肯定と、その力を創造的に発揮することに生の価値を見出しました。これは、キリスト教的な彼岸や禁欲主義を否定し、この現実世界における生命と力を肯定するニーチェ哲学の根本的な立場と深く結びついています。
「力への意志」の多様な解釈と『ツァラトゥストラ』
「力への意志」という概念は、宇宙論的な原理、心理学的な衝動、倫理的な規範、あるいは解釈学的な枠組みなど、様々なレベルで解釈が可能です。『ツァラトゥストラ』の中では、これらの側面が詩的な言葉やツァラトゥストラの行動を通して複合的に示唆されています。
例えば、ツァラトゥストラが孤独な山に住み、自己と向き合い、自身の知恵を深めようとする姿は、自己の「力への意志」を内的に高める過程と見ることができます。また、彼が人々に下降し、自身の知恵を分かち合おうとする行為は、その力が外に向けて発揮される様を示しているとも解釈できます。
「力への意志」は、単一の固定された定義を持つ概念ではなく、ニーチェが様々な文脈で用いる多層的な思考ツールです。『ツァラトゥストラ』を読む際には、この概念が単なる強さや支配を意味するのではなく、生命の根源的な力動性、生成、創造、自己超克への衝動としてどのように働いているのかを捉えることが重要です。ショーペンハウアーの厭世主義的な意志概念との対比を通じて、ニーチェがこの世界と生命をいかに肯定的に捉え直そうとしたのかが、より鮮明に浮かび上がってきます。
結論
『ツァラトゥストラはこう語った』における「力への意志」は、ニーチェ哲学の中核をなす概念であり、単なる権力欲や支配欲とは本質的に異なります。それは、生命が自己を超え、より高次の形態へと自己を形成しようとする根源的な力動性であり、創造と自己超克の原理です。この概念をショーペンハウアーの「生の意志」と比較することで、ニーチェが生命の本質を苦悩からの逃避ではなく、力の肯定と創造的な発揮に見出した点が明確になります。
『ツァラトゥストラ』を深く理解するためには、この「力への意志」が作品内でどのように表現され、他の主要概念(超人、永劫回帰など)とどのように関連しているのかを丁寧に読み解く必要があります。それは、ニーチェが私たち自身の内なる可能性と、この世界をいかに肯定的に捉え直すかを問う、根源的な問いに繋がっていくものと言えるでしょう。